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[2020.03.30] #8村上 慎也 Episode.0

公開日:2020/3/30(月)
筆者:MC TEDDY

#8 村上 慎也 Episode.0 − 福島に来ていなければバスケを辞めていたかもしれない。−
村上慎也は福岡市で生まれ、前原市(現・糸島市)で幼少期を過ごしている。
今では観光地として人気の糸島ではあるが、当時はサーファーに人気があるぐらいで特に何もない街というのが本人の思い出である。

子供の頃から外で遊ぶのが好きだったが、父、兄、姉がバスケをやっていたので、小1の時に半ば強制的に体育館に連れていかれミニバスチームに参加。ここからバスケットボール生活がはじまる。
本当は野球をやりたい気持ちもあったが、家にリングがありシュートなどで遊んでいたので、バスケを始めるのは自然な流れだったのかもしれない。
ミニバスの練習は週1回。練習のない日もゲームより外で遊ぶのが好きな子供だった。
転機が訪れたのは小学校6年生。引っ越し、転校を機に加入したのが古賀ブレイズ。
そのチームには比江島慎(現・宇都宮ブレックス)がいた。
ちなみに当時の印象を聞いてみると、当時からクネクネしたドリブルしていたとの事。
村上慎也、比江島慎。更に同年代には身長の高いメンバーもいて選手が揃っていた。
同地区のライバルチームの志免ブルーウィンズと常に大会で競いあっていたが、
全国大会に繋がる最後の県大会に勝利。そして出場した大会で全国優勝を達成する事となる。

中学は鶴我先生の指導を受けたくて百道中に越境入学。そこには比江島慎とブルーウィンズの上野翼も入学していた。しかし、2年時に先生が姪浜中に異動となり、追いかける様に転校。
しかし。2年の5月突如。比江島がここで続けられないと百道中に戻ってしまう。
そんな中で残ったメンバーで全国大会を目指して戦ったが、3年最後の大会も南小倉中に
ベスト4で敗れて部活引退となった(この年の県大会優勝は比江島のいる百道中)
中学時代は九州大会に出場したが、全国には届かなかった。
また、オスグッド(成長痛)による膝の痛み。そして入学時140センチの身長も150前半にしか伸びず、体格の不利もあって、バスケが楽しくないと思い悩む時期もあった。

それでもやはりバスケしかないと思い、色々な縁もあり選んだ進学先は宮崎県の小林高校。
小林高校を率いていたのは、同校OBの吉村康夫。
当時の練習の話を聞くと村上は苦い顔をして、思い出すのも嫌になる位に毎日ハードな練習だった。夏場は4部練習も行っていて、今思い出しても人生の中で1番しんどくてきつかったと振り返ってくれた。
1年生はベンチにも入れなかったが、2年からは少しずつ試合にも出れる様になった。
日々の練習、筋トレで体も出来上がり、身長も165センチまで伸びていた。
そして、吉村監督の指導の下、スピードに活路を見出すなど、バスケをプレーする楽しさを取り戻していった。また高校時代に礼儀、人間性を学べたことも大きかったと本人は話す。
高校時代も全国大会を目指していたが、県内の延岡学園は全国トップレベルの強さがあり、
総体、国体、ウインターカップには届かなかった。

その後はバスケで頑張ろうと関東の大学に進学を考えていたが、ここで受験に失敗してしまい、浪人はしたくないということもあり、福岡の九州共立大学へ。
当時バスケ部は創部5年目。強いチームではなかった。本人もがっつりバスケをする考えも無く、バスケでプロを目指すよりも、体育教師になりバスケ指導者というプランを描いていた。
転機が訪れたのは大学2年。松下電器、ライジング福岡でプレーしていた川面剛が
コーチとして加入してくる。川面の要求は高かった。練習でのランニングメニューのタイム設定も厳しかったし、プレーにおいてはパスを出すと、自分でプッシュしろと怒られていた。
それでも大学でも国体メンバーにも入れず。卒業後のこともどうしようかと考えていた。
その時に川面にはプロを目指せと助言される。
九州でプレーしていて、全国での活躍の実績もない自分にチャンスはないと思っていたが、若い時しかチャレンジ出来ないと思い、両親に2年だけ時間が欲しいと頭を下げ、川面の紹介でライジング福岡に練習生として参加することになった。
なかなか練習メニューには参加できなかったが、終盤にケガ人がでたこともあり5対5練習に参加するようになり、少し手応えを掴んでいた。それでもライジング福岡からプロ契約の話には至らず。大学卒業後の6月にbjリーグトライアウトを受ける。
ここではライジング福岡での練習参加での手応えと自信を持ってプレーすることが出来た。

そこで声をかけてきたのが浜松東三河フェニックス(現・三遠ネオフェニックス)の東野智弥HC(現・日本バスケットボール協会技術委員長)
まずはプロになるのが大事だったので、条件は考えず入団を決めプロ生活がスタートする。
当時のbjリーグの契約は厳しく、練習が終わると週3でスクールの指導。
切り詰めながらギリギリ生活が出来る状態だった。
それでもフェニックスの練習、トレーニングの環境は揃っていた。
また練習ではベテランの大口真洋。日本代表の太田敦也との練習は貴重な経験だった。
しかし、当時のbjリーグでは外国籍選手も枠が4人いて、ガードにも外国人選手がいたこともあり、なかなか試合に出場する事ができなかった。


試合が決まったなかで短い時間の出場をしていたが、10月の沖縄戦では10分に出場で5得点4アシストを決めるなど活躍を見せた。
また、チームが調子を落としていた3月にはスタメンで30分のプレータイムを得て、DFでプレッシャーをかけて流れを作るなど見せ場を作った。試合に出ればやれる手応えもあった。しかしその反面。なかなか安定したプレーを続けられない、試合には出たいが、ミスをしたくないという葛藤もあった。
1年目のスタッツは20試合出場(全52試合)プレータイム93分14得点12アシスト。
2年目もフェニックスでのプレーも考えていたが、外国籍ガード選手の存在。今後のプレータイムのこともあり、移籍を考えるようになった。それでもスタッツに数字の残っていない新人選手に声を掛けるチームはなかった。その中でフェニックスOBの藤田弘輝が新規参入チーム・福島ファイヤーボンズHC就任が決まっていた。新規参入チームならば、チャンスがあるのではないかとの思いもあり、トライアウトを経て、福島への入団が決まる。もしも福島に来ていなかったら、バスケを辞めていたかもしれない。
両親と約束していた2年という時間も迫っていた。
希望と覚悟を持って縁もゆかりもない福島での勝負が始まろうとしていた。


~Episode.1へ続く~