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[2020.04.03] #32武藤 修平 Episode.0

公開日:2020/4/3(金)
筆者:MC TEDDY

#32 武藤 修平 Episode.0 − プロバスケットボール選手としての覚悟 −
茨城県北茨城市生まれの武藤修平。
北茨城は南福島とも呼ばれ、水戸までは1時間半かかるが、いわきまでは30分。
子供の頃に買い物に行くといえばいわきのショッピングモールだった。
社会人チームでプレーしていた父をはじめ、バスケ家族で育つ環境だったが、グローブを買ってもらって父とキャッチボールしたり。テニスもプレーしていた。
それでも小学校高学年からはミニバスチームに入り活動をはじめる。
よりレベルの高いチームを求め入団したのは市を跨いだ日高ミニバス。
人数も多いチームだったが、当時から身体も大きかったので入団からAチームでプレー。
まだルールもわかってない状態で大会に出場していたと本人は笑って話してくれた。
小学校のミニバスチームではカップ戦では優勝もしたが、全国大会に繋がる大会で結果を出す事が出来ず、全国大会の出場は叶わなかった。また、他県のチームとの対戦ではチームも自分のプレーも全く通用せず、世界は広いなと感じていた。

中学は地元の学校へ。入学直後の部活見学でバスケ部のあまりに激しい練習を目の当たりにして、一時は楽そうという理由で卓球部への逃げ道も考えたが、それを相談した母親から、好きにすればいいんじゃない。というそっけない返答が逆にハートに火をつけてバスケ部入部を決意する。
しかしバスケ部の練習は予想以上にハードであった。朝練もあった為、入学当初は部活と学生生活のリズムを掴むのに苦戦。授業にも集中することが出来ずテストの順位を大幅に落としてしまう。部のルールで落ちた順位の分だけ罰走が課せられてしまい、自分のプレーをアピールする機会も限られてしまい。入学最初の大会ではメンバー入りすることが出来なかった。切り替えて、開き直り明るく練習に取り組んでいたが、人生の中でも上位に入る悔しい出来事だったと振り返る。
中学2年ではスタメンとして試合に出場、身長も190センチになり茨城県選抜に選ばれて、ジュニアオールスターにも出場。他県と試合をするなかで上手い選手と試合をするのは楽しかったが、自分のプレーに手応えがあったわけではなかった。しかし選抜に選ばれたということもあり、どこかテングになっていた部分もあった。そんなこともあり、自分の中学ではチームをまとめることが出来ず、中3の最後の大会も練習試合ではずっと勝っていたチームに敗れて部活引退となった。
茨城選抜に選ばれていたので、県内外の複数の高校から誘いの話が来ていた。
夏休みを利用して、それぞれの高校の練習に参加。各校の特色も理解した上で、そろそろ進路を決めようと思っていた夏の終わり。運命は別の方向へと向かっていく。

当時、日立電線(現・日立金属ブルドッグス)のHCを務めていた父と拓殖大学の池内監督は両チームで試合を行うなど交流があった。その中で秋田の能代工業がサイズの大きな選手を探しているという話になった。(父と能代工の加藤三彦監督は同郷で学生時代に対戦していた。)この不思議な三角関係という縁もあり10月に能代工の練習に参加する。
当時の能代工は県大会勝って当たり前。全国で勝つために日々練習に取り組む常勝軍団。
初めて練習に参加したした時はそのオーラに圧倒されたという。
中学バスケでは不完全燃焼で終わっていた。また全国で実績のなかった自分が強豪の能代工に行けるチャンスがある。強い高校で勝負したい。もう迷いはなかった。
他の学校に断りを入れ、能代工への進学を決める。
そして入学した能代工。最初は先輩の名前。部歌を覚えるなど独自のルールに慣れるのが大変だった。そして練習では同じポジションの3年の満原優樹(現。琉球ゴールデンキングス)と組んでいた。U18代表にも選ばれる満原とのマッチアップは、中学卒業間もない武藤にとってはなかなかタフだったが、持ち前の負けん気を発揮して食らいついていった。
1年時からベンチ入りしていたが、スタメンがフル出場するのが当たり前の時代。
なかなか出場時間を得る事が出来なかった。チームは総体、国体で優勝。3冠を目指してウインターカップに臨んだが、準決勝で満原が負傷。自分に出番が来ると思っていたが、そこで試合に出たのは別のポジションの先輩だった。チームは敗れて3位で大会を終える。
試合に出られなかった悔しさを持って進級。
しかし東北新人戦で宮城県の明成高校に敗戦、続く国体でも宮城県に敗れて全国を逃す。
その後、県大会は余裕を持って突破するが、全国ではなかなか勝つことが出来なかった。
2年時、加藤監督が退任。佐藤信長が新監督に就任。ゾーンディフェンスからマンツーマンディフェンスなど新しいバスケに取り組む転換期に入っていた。2、3年時も全国大会に出場したが最高成績はベスト8。自分たちの代では全国優勝を手にすることはできなかった。

将来はバスケをして生活したい。また高校時代の悔しさもあり関東の大学への進学を希望。
高校入学時と同じ複数の大学から誘いの話があったが、ここでも父とも親交のあった縁もあり、吉田健司が監督を務める筑波大学への進学を決める。
筑波大学は武藤が入学した時に関東リーグの2部から1部に昇格。
先輩には田渡修人(現・サンロッカーズ渋谷)加納誠也(現・ライジングゼファーフクオカ)
らが所属していた。
1年から試合にも出場して、活躍する試合もあった。しかし、ここで人生最大の試練が訪れる。ある試合を境にして、試合出場はおろか、ベンチ外になることもあった。
調子が悪いわけでも、ましてや部の規則を破ったわけでもない。
監督に理由を聞いたが、ボールを動かしたいのでガードを強化するための戦術的な理由と説明された。それを理解しようと頭では思ったがメンタルは崩壊していた。
練習中、それ以外でも急に眩暈を起こすなど日常生活にも支障をきたしていた。
この時は人生で唯一バスケを辞める可能性があるタイミングだったかもしれない。
それでも、このままでは終われない。終わりたくない、負けたくない自分を奮い立たせてコートに立ち続けることで、この最大のピンチを乗り越えていく。
再びプレータイムを勝ち取るが、リーグ戦では下位に沈み、関東学院大学との入れ替え戦に勝利してなんとか1部残留を決めるが、インカレでも勝ち進むことはできなかった。
余談になるが、この時の関東学院大学には現チームメイトの前田陽介が所属していた。

2年になるとガードのポジションに笹山貴哉(現・名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)が入学して戦力も整いはじめていた。その後のリーグ戦では4位、5位と優勝争いに食い込むことはできなかったが、安定したチームへと変化していった。インカレでもベスト8進出。Wオーバータイムを制して5位入賞。天皇杯で社会人チームに勝利することもあった。
大学時代は難しい時期もあったが先輩、後輩と協力して戦う楽しさを感じる事が出来た。

卒業後もバスケットを続けていきたいと考えていたが、吉田監督からは、今の実力、能力では社会人1部(当時トップリーグとなるNBL)で
プレーすることは厳しいとはっきり言われた。それでも働きながらでもプレーを続けたい思いから、いくつかの選択肢から一般試験、面接を経て豊田通商へ入社を決める。
豊田通商は社会人2部リーグとなるNBDLに所属。2部の中では圧倒的な強さがあり、NBL準加盟となっていたので、チャンスがあれば、1部昇格を狙っていた。

入社後は社会人プレーヤーとしての生活がスタートした。
平日は電車に乗って朝の8時30分に出社して、部品のピッキング作業に従事。
17時30分に退社して一度帰宅。週3回は20時から22時のチーム練習に参加。
そのあとに個人練習、トレーニング。週末は遠征や試合というスケジュールだった。
なかなかハードなスケジュールにも思えるが、働きながらバスケをプレーするのは
こういうことなんだと思っていた。
この生活の2年目。日本のバスケ界はBリーグ開幕へと動き出していた。
豊田通商もファイティングイーグルス名古屋としてBリーグ2部のB2参戦が決まる。
Bリーグへの参戦は決まったが全員がプロ契約するわけではなかった。
そこでプロ契約をチームに打診する。2年目のシーズンは部署も変わって、仕事が忙しくなり、練習に参加できないこともあった。しかしチームからプロ契約は見送ると伝えられる。
それでも「武藤を現場に入れるな!」と社内通達があり、仕事内容は少し楽になり退社も
16時に早くなったが、練習日は増えていた。Bリーグになったことで注目度も上がった。
そして何よりもリーグ全体のレベルも上がり試合をする事が楽しくなっていた。

会社の配慮もあり業務は少し楽になっていた。それでも名古屋でNBDL2年。
Bリーグ1年目が終了したタイミングでもう1度プロ契約をして欲しいとチームに打診するが、やはり名古屋でプロ契約はできないと回答される。
そこで可能性を求めてチームと話しあった結果。自由交渉リスト掲載となる。

どのチームも日本人ビッグマンを求めている状況もあり、ここでも複数チームから獲得のオファーが届く。それぞれのチームの話を聞いたが、自分は社会人を辞めてプロバスケットボール選手として新しい道を進んでいく。1番評価してくれたチームに行きたい。最終的には関東と福島の2つのチームに絞られていた。
そして最終的にはプロとして1番評価の高かった福島ファイヤーボンズ入団を決める。
福島といっても実家に近くなる位の感覚だったが、プロとしてバスケットボールをプレーする。覚悟を持って福島での戦いが始まろうとしていた。



~Episode.1へ続く~