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[2020.06.03] #34前田 陽介 「感謝を胸に(前編)」

公開日:2020/6/3(水)
筆者:MC TEDDY

#34 前田 陽介 「感謝を胸に(前編)」
1989年7月18日。
前田家の長男として、前田陽介が誕生したのは宮崎県のほぼ中央に位置する人口2万人弱の川南町。
大規模な開拓事業が成功したことで青森県十和田市、福島県矢吹町と共に日本三大開拓地とも呼ばれている自然豊かな町であった。

初めてバスケットボールに出会ったのは小学1年生 。 校庭で高学年の男子がプレーしているのを見て、そのかっこよさに一瞬で心を奪われてしまった。ちなみに時代は90年代半ば。スラムダンクの影響があったことが予想される。
その後、2年の時に川南ミニバス少年団に入団。この時チームは結成2年目。同級生のメンバーは3人しかいなかった。チームは週2回の活動だったが、練習のない日も学校が終わるとボールを使って 毎日練習していた。ミニバス時代は隣町に強いチームがいて 、なかなか勝利する事はできなかったが、それ以上にバスケのシュートやドリブルなど 楽しさを感じてプレーすることができた。
そして小学6年の時、従姉が延岡学園のバレー部にいたことから、 同校のバスケ部の試合を見る機会が訪れる。初めて生で見るレベルの高い試合。そこで 戦う選手のカッコよさに憧れて、自分も延岡学園のバスケ部でプレーしたいという思いが芽生えていた。

中学は地元の川南町立唐瀬原中学校へ。バスケ部に入部。入学早々の三者面談で「特待生で延岡学園に行きます」と宣言。
担任は懐疑的なリアクションだったが、母親は否定せずに応援してくれた。中学時代もチームはなかなか勝つ事ができなかったが、中学2年の時に県選抜候補へ。最終の選考会ではそれなりに得点を決めていたが、あまり手応えはなかった。それでも最終メンバーに滑り込みジュニアオールスターに出場する。大会直前のケガの影響もあり、万全のコンディションでなかった。悔いは残ったが、初めての全国大会。同世代トップの選手を相手にしても戦える手応えを掴む事ができた。チームは小学校時代と同じく同地区に県準優勝の強豪、高鍋西中がいたこともあり、ずっと地区予選を突破することができなかった。
そして迎えた中学3年の最後の大会。練習試合でも1度も勝てなかった高鍋西中に勝利して地区大会優勝。県大会出場の目標を達成する。残念ながら県大会は1回戦で敗退となってしまったが、入学当初はバスケ未経験のメンバー が多かったが3年間で誰も辞めることなく、みんなで練習メニューを考え試行錯誤して掴んだ県大会出場は中学時代に大きな達成感を得る大きな経験となった。

県選抜に選出された活躍を評価され、高校は宣言通り特待生で延岡学園に進学。
延岡学園は日本で初めてバスケ留学生を招聘。坂本ジェイ( 群馬 ママドゥ・ジェイ)の活躍もあり、全国大会でも注目されていた 。入学当時1学年上には月野雅人(仙台)、セネガルからの留学生でファイ・パプムール(北海道 ファイ・パプ 月瑠)が在籍していた。入学直後からAチームの練習に参加 。早い段階からベンチ入り、試合にも出場していた。最初の全国大会となる千葉県で開催されたインターハイ 。ママドゥ・ジェイの活躍もあり、勢いにのったチームは決勝で福岡大学付属大濠高校に勝利にして 優勝。延岡学園にとっては初の全国優勝のタイトル獲得となった。前田自身も得点はなかったが決勝戦にも出場している。当時のチームは 、全く負ける気がしない、まさに無敵状態だったと振り返る。社会人チームも出場するオールジャパンの九州大会でも優勝。ウインターカップ直前に行われたこの大会で、多くのプレータイムを与えられることになる。本人もシュートはこの頃 から自信はあったが、周りの先輩が自分の良さを引き出してくれたと振り返っている。また強力なセンターがリバウンドを取ってくれるという信頼感から、思いっきりシュートを打つことができた。入学から公式戦無敗で迎えたウインターカップも決勝に進出。福岡第一に敗れて準優勝となったが、1年間を通してレベルの高いチームでプレーする事で多くの経験を得る事が出来た。

2年、3年となると全国の各校からのマークもかなり厳しくなっていた。県大会を勝ちインターハイやウインターカップには出場していたが、全国制覇には届かなかった。そして高校最後のウインターカップ。初戦の取手商戦ブザービーターで敗戦してしまう 。オールジャパンの九州大会決勝でもブザービーターで敗れており 、高校最後の1ヵ月間で2回のブザービーターで敗戦という苦い経験をすることになる。それでも北郷監督の「他人よがりになるな、自分で責任をもて」という教えの下、厳しい練習に取り組んだ高校バスケ3年間だった。
余談だが、同じ宮崎県の小林高校には1学年下に村上慎也が所属していた。試合であまりマッチアップした事はなかったが、線は細いがスピードは抜群だったと話してくれた。
高校卒業後もバスケを続けたいと考えていた。その時はプロになるという考えよりもとにかく大学4年間バスケを続けたい思いが強かった。また、やるならレベルの高い所でプレーしたいと考えて関東の大学への進学を模索していた。いくつかの選択肢があったが、高校の先輩のファイ・パプムールが入学直後から活躍していた事、特待生制度もあった事から、神奈川の関東学院大学への進学を決める。しかし、大学入学するまで関東の大学のリーグ戦がカテゴリー分けされていると知らず、入学して初めて同校が関東3部に所属だという事実を知ることになる・・・。
同級生には同じ宮崎出身の河野誠司(山形)や細谷将司(秋田)がいた。高校同様に大学でも入学当初からAチームでプレーしてたが、3部という事であまりレベルの高さを感じる事もなかった。その為、ある程度はプレーできるという思いから、少し気持ちが緩んでしまい、友人と遊ぶ事の楽しさを知ってしまった。自分でもよくない事だと気付いていたが、そんな時に声を掛けてくれたのが同居していたファイ・パプムールだった。ある日の帰り道で「もっと真剣にやらなくちゃいけない。なんの為にこの学校に来たのかを考えなくちゃいけない」と激しく叱責される。信頼する先輩の言葉は、胸にぐっとくるものがあった。また、その年のインカレで大学トップレベルの選手のプレー、体つきをみて、このままではいけないと思い直した 。
その後、気持ちを入れ替えて、練習はもちろん、フィジカル、ウエイトにも積極的に取り組む様になっていった。
そして大学2年の時に転機が訪れる。

同大学OBでもある堀英樹氏が外部コーチとして就任する。JBLなどでもプレーした同氏の指導するバスケットは新鮮であり、刺激的でもあった。この指導の効果もありチーム力も向上。3部Aリーグで13勝1敗の2位となりチー ム初の2部昇格を決める。
3年になっても勢いは止まらず、春のトーナメントでベスト8に進出、前田自身も関東の選抜チームに選出されて全国地域大会、国体メンバーとして大会に参加する。しかし、この2大会ではほとんど出場機会に恵まれず、この悔しさが更なる原動力となった。2部初参戦となったリーグ戦でも得点を重ねて活躍。結果13勝5敗3位となる。残念ながら筑波大学との入れ替え戦ではファイ・パプムールが怪我で不出場の影響もあり敗戦。1部昇格とはならなかった。それでも続くインカレでは1部チームに勝利するなど、チーム史上最高成績となるベスト4進出の結果を残すことになった。
大学最終年、共に戦っていたファイ・パプムールがbjリーグ横浜ビーコルセアーズに入団。自分もそれに続きたいと、プロ入りが明確な目標になっていた。
しかしその矢先、自分の不注意で足の甲に火傷を負い、練習できない状況になり体重も増加。
一度下がったコンディションをなかなか戻す事が出来なかった。悪い事は続くもので、ここまで順調に成長していたチームは練習内容などを巡り選手とコーチの関係が徐々に悪化。1度崩れてしまった信頼関係はなかなか修復出来ず、結果リーグ戦直後にコーチが退任、短いリーグ戦ではチームを建て直す事ができなかった。結果は7勝11敗の8位。入れ替え戦に勝利して降格は免れたが、目標の1部昇格は達成できなかった。

大学卒業後の進路を考えるタイミングで、関東学院大学との繋がりがあった横浜ビーコルセアーズから、アーリーエントリーでの入団の打診が届く。迷わず入団を決め12月から参戦。しかしbjリーグでは外国人のレベルの高さになかなか対応する事が出来ず、プレータイムもほとんど得ることが出来なかったが、それでもレベルの高い環境 での練習。有明でのファイナルを経験することで自分の更なる成長を感じることができた。
その結果、練習へ真面目に取り組む姿勢や将来性を期待され、2012/2013シーズンから正式に横浜ビーコルセアーズに入団。
いよいよプロとしてのキャリアがスタートしようとしていた。


~中編へ続く~